家は、代々医者と製茶業を営んでいました。誠は若い時代より茶業に情熱を注ぎ、明治6年には埼玉県狭山より加藤伝介氏も招き、土焙炉蒸葉製造、再製火入れの伝習をうけました。明治30年には、県の指導により静岡風緑茶製法の伝習会をもち、製茶改良に取り組みました。当園のお茶が明治32年のパリ万博に出品されるなど、地域振興発展の先駆者となりました。「当地方の茶業は、山間地特有の気候を活かした品質中心の高級茶生産で行くべきだ」と左貫茶(奥久慈茶)の方向付けを行っており、今日の高品質な奥久慈茶づくりの礎となっています。明治43年創業以来、自園、自製、自販に取り組み、自園の徹底した茶園の管理はもちろん契約茶農家と連携しながら品種、肥料、適採時期など研究を重ね、品質向上に努めています。丁寧なお茶づくりをモットーに、昔ながらの手摘みや機械化による効率的な適採をしており、職人の熟練した技と、製造工程での徹底した水分管理、温度管理で感覚と数値を融合させたお茶づくりをしています。
平成26年の第54回茨城県茶業振興共進会(お茶の品評会)で、当園のお茶が普通煎茶の部、深むし茶の部とも1等のダブル受賞しました。また、当社では会長、社長ともに日本茶インストラクターの資格を取得し、「煎茶楽塾」の経営や、お茶の淹れ方教室などを開催し、お茶の製造、販売だけでなくお茶の文化も提供しています。
祖先 吉成正周(水戸徳川家御殿医)は立原翠軒先生(水戸藩学者)と知己の間柄で、先生に茶を贈ったところ非常に推称され銘を選んで「花の里」とされました。これは木花開耶姫(このはなさくやひめ)を祝った花室神社(村社)と延元年間に結城親朝が植えたと伝説をもつ屋敷内の老桜の花の一字をとり、左貫の里の一字を合わせたといわれています。以降、明治維新まで毎年藩主徳川家に茶を献納し、これらの由緒を重んじて今日も「花の里」と称しています。